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政治家の国際感覚のなさ、軽々発言は今更だが、先頃の奥田経団連会長の「米国自動車産業のシェアー低下、業績悪化に対し日本車の価格アップも考えねばならない」との発言には驚いた。現実には確かに考えねばならない状況なのかも知れない。しかし、しかし、なぜ経団連会長として公式発言したのだろう。その上、ホンダ、などの反対発言。 本来この手の話は、日本業界で内密に意見を一致させ、米国自動車産業界と内密に話をし、米国政府にも内密に話を通した上でこっそり実施して始めて意義があり、また恩を売ることができる。 何の下地つくりもせず、まして公式発表してしまっては、米国業界から反発され、実行不能になることは必至である。(まさか、自ら実施する気がないので発表したとも考えられない) この発言が三菱自動車のトップがしたのなら、驚きは少ない。しかし、発言者は最優秀企業のトップで、かつ米国市場で長い経験をもち、国際感覚豊富と言われる奥田氏なのだから、驚きは大きい。 所詮は先人の築いた実績の上に乗っかったサラリーマン経営者に過ぎず、たまたまの業績に胡坐をかいた浅薄さと傲慢さの現れとしか思えない。そう考えると下降スパイラルに陥っている米国自動車産業あっての日本自動車業界の好業績に過ぎないのではないかと思えてくる。氏は一企業の狭義の経営はできるかもしれないが、経団連会長に要求される一国の経済界の戦略、戦術を引っ張る能力はゼロと言える。 このように見てくると、日本人総白痴化はどうにもならないところまで来てしまっていると考えざるを得ないのであろうか!!!。
思っていた以上に日本の状況は悪化しているようだ。最近の小泉首相の言動を見ると、あそこまで政治能力のない人であったか、と愕然とせざるを得ない。また、それ以上に彼を支えるブレイン、スタッフの質を疑問視せざるを得ない。誰がやろうと首相個人の力は限界があり、いかに優秀なブレイン、スタッフを抱えるかが、首相個人の能力以上に重要である。それなのに、あの首相の一本調子に否を言う人がいないらしい。 結局、真に必要なブレイン、スタッフを選び、活かす能力がない人を首相にしてしまっていると言うことかもしれない。 靖国問題など、国際政治の中にあって何のメリットもない。会談をドタキャンした、云々をいったところで、外交プロトコールの問題に過ぎない。中国の稚拙さをPRしたところで、日本のメリットは何もないことが分からないのだろうか。よけい靖国問題をクローズアップし、アジア諸国に警戒心を抱かせるか、日本の国際感覚のなさをPRしているだけである。日本の中でも、ほんの一部の人々は首相の堅固な志しにありがたく賛意を示すかもしれないが、多くの日本国民はその是非はともかく、首相の堅固な意思はもう充分理解している。あの中曽根さんでさえも、大事になる前に参拝を自粛した例がある。選挙運動としても、また阿部さん擁立の下地つくりにしてももう目的は達したはず。これ以上は、プラスに働かないことが判断できなかったのだろうか。(まさか、かねてから首相のバックアップをしていると言われる地元の右翼系暴力団のボスからの指令ではあるまい) 民主党の人が、ヒットラーの墓に参るのと同じ、と言ったらしいが、まさに至言である。日本人としては、独裁者ヒットラーと一軍人大臣の東條さんと同じレベルにしてくれるな、と言いたいが、日本人以外にとっては、政治的には全く同じであることを理解できないという国際感覚のなさは情けない。 一方、現中国政府は種々の内部矛盾を抱えており、日本がこの辺で折れてくれることを期待していたことが分からないのであろうか。 まさに、恩を売ることができたのに、彼等を苦境に立たせ、彼等も簡単に引けない状況に落し入れてしまった。結果として、日本国民がそのマイナスを背負わされることになった。 中国の経済大国化は、5年~10年のスパンで考えると、もう避けえられないことは、誰の目からも必然の状況にある。その時、日本はどうするのかを考えて国策を練ることが政治家として必須の要件のはずである。国民がどう頑張っても、対等の位置になれない事は必至である。しかし、うまくやれば、日本は、10年後には、地政学的にも、地経学的にも、中国と米の間に立って働ける極めて有利なポジションにつける可能性はある。そのためには、いまこそ国内政治の苦境にある中国に恩を売り、米国一辺倒からの離脱を徐々にはかり、、独立国日本の下地つくりをはじめる好機だったはずだ。将来は米国と中国の間に立って、両国を手玉にとって国際政治を動かすのだ、という意気込みだけでも持ってもらえないのであろうか。 しかし、今日しかない政治家に5年後、10年後の見越した国策を期待するのは、どだい無理なのかもしれない。コメディアンやタレントを国会議員どころか、地方行政首長にまで選んでしまう日本人の政治に対する無知は度を越している以上、その国民が選んだ政治家に期待することそのものがナンセンスなのだろう・・・。
朝日新聞5月8日朝刊の「幸せ大国をめざして⑤成長主義の功罪」というシリーズ記事に「日本21世紀ビジョン」内閣府専門調査会会長の香西 泰氏とブータン内務相ジグミ・ティンレイ氏の“幸せ”をめぐる興味深いインタビューが掲載された。 香西氏は「成長が未来の幸福を育む。価値観の転換も必要だが、物質的豊かさがあっての幸福だ。経済的成功が選択の幅を広げる。日本は今後GDP2%成長しなければ不幸になる」という。 ティンレイ氏は「経済成長は幸福を得るための数ある手段の一つに過ぎない。何を幸福と感じるかは人によって違う。GDPでは測れないものがあるし、GDPを高めるため捨てたり省いたりしなければならないこともある。GDP拡大で幸福な人が増えるとは限らない。」という。 また、「物質的な成長と精神的豊かさには、ある程度の正の関係があること」を認めながらも、「社会を構成する基礎単位の家族」の重要性を指摘し、「これが壊れると、社会が崩壊する」「経済のグローバル化は、地域や家族などの共同体にとって脅威だ。個人主義があまり強くなると共同体がばらばらになる。」という。 ブータンは「国家総幸福量(GNH)」という独自の国家目標を掲げ、「GDP一辺倒で成長を求めてきた多くの国に忘れていた何かを思い出させる役割ができればいい」と云う。 日本の現状を見ると、ブータンの行き方を経済的成長に見捨てられた弱小国としての悔し紛れと切り捨てることができない何かを語っているように思える。 香西氏は、「少なくとも2%成長を維持し市場経済を活性化していかないと、日本は一流国ではなくなり、不幸になる」と。では、もし成長できなくなったら、どうするのか。そのための方策はあるのか。どこか、かっての右肩上がりの高度成長時代と同じ論旨のように思える。 香西氏の意見はまさに元通産役人の枠を越えられない限界を示しているが、そのような人を国策を策定する調査会会長にしなければならない日本の限界をも示していると思う。
第二次世界大戦前に“地理的条件を基軸にして、国家の生存や拡大・膨張、さらには世界的覇権の確立をめざすグローバルな戦略理論として、また、そのためのきわめて現実的な政策科学として展開された多様な理論”として「地政学(Geopolitics)」が力説され、大戦に少なからず影響を与えた。ヒトラーの国土拡大戦略に、また日本の大東亜共栄圏の正当化に利用されたと云われている。 こう云う経緯もあり、「主として領土拡大に国益を見出し、その実現のために軍事力の行使も辞さない国際政治の論理」とされ、地政学は徐々に「地経学(Geoeconomics)」に道をゆずるようになっている。 確かに、現在の世界は経済をベースとした「地経学」で動いていることは事実である。しかし、一方で多くの人々の頭の中では、「地政学」的な見方が依然として強いのではないかと思う。 中国人の立場に立って、日本を考えてみよう。 左の図は見方を変えた極東の地図である。日本は、大陸の珊瑚礁のようにも見えるし、沿海地域が陥没して残った陸地の片割れのようにも見える。そこは、千数百年に渡って朝貢してくる東夷が住む属国であった。その後、数百年疎遠の時期があった。百年ほど前、自国の政治的疲弊から、属国日本の反乱を抑えきれなかったが、60年前、欧米の力を借りてこの属国の反乱を抑えることができた。 しかし、戦後分裂した欧米ー露間の冷戦時代に入り、米国が、植民地とした日本を露国に対する防波堤として利用するため多大な経済的投資を行ったため、米国の属国日本は経済的に発展した。ところが、なにを勘違いしたのか、日本は自力で経済大国になったつもりになり、独立国になった気になって、あろうことか国際連合の常任理事国になりたいとまで言い出した。 そもそも、43/10 米英ソ中によって採択されたモスクワ宣言、44/10 同じく前記四カ国会議でダーバートン・オークス提案として国連憲章の原型と「国際連合」という名称を含めた枠組みを決めた。そして、45/2 ヤルタ協定で最終合意を得た後、45/4 米英中ソ共催で独、日に対して宣戦している国々を集めて国連創設会議を開き、批准後45/10国連が成立した。国際連合とは、無頼国:独、日に対する連合体であり、常任理事国とは、創設メンバーに戦勝国 仏を加えた国がなったのである。 日本は、戦後米国の教育の良きを得て軍備放棄を宣し、経済的に世界に影響を持つに到り、無視できない位置になりはしたが、己の分をわきまえていない。現在は過去の上に立って成立していることを分かっていない。 以上、上記が正しいかどうかは別として、中国のみならず他国は多かれ少なかれ、これに似た感覚を抱いていること否定できない。
朝日新聞4月25日朝刊から「小林慶一郎のディベート経済」という対立する二つの主張を紙上でディベートする掲載が始まり、その第一回が「会社は誰のものか」であった。極めて興味深い内容なので、以下に転載する。 ●主張A 「株主利益の最大化が目的」 株主や投資家の立場では「会社は株主のもの」という見方が当然視されている。そのポイントをみておこう。 経済学的には、会社の存在理由は利潤の最大化である。そして、その利潤は最終的には株主に帰属する。つまり、会社の存在目的は株主の利益を最大化することなのだ。言い換えれば、会社は株主のもの、と言うことになる。 勿論、社員が「やりがい」を持って働くことや、顧客が会社から高い満足をを得ることは重要だ。しかし、社員や顧客が重要なのは、彼らが会社に利益をもたらし、最終的に株主の利益を最大化してくれるからだ。 逆に言えば、株主の利益を損なってまで、会社が社員に気を使ったり、顧客に利益を与えたりすることは許されない。会社の存在目的に反している。 また、何が株主の利益になるかは株主自身が一番よく知っている。だから、会社の事業内容の再編、経営陣や役員のリストラなどは、当然、株主の「考え」に従って行われるべきだ。 たとえば、会社の事業内容をどのように再編するかは当然、新しい株主の意思が最大限、尊重されるべきだ。それが会社の価値を最大化するはずだ。 また、株主が会社の事業内容について専門的な知識がないとしても、誰に経営を任せるべきかは、株主が当然決める。既存の経営陣に続投を求めるか、新しい経営専門家を招くか、その選択をするのは株主の当然の権利だ。 最近の経済学では、会社を「本人と代理人のモデル」として扱うのが一般的だ。 会社の経営陣は、あくまで株主の「代理人」として、株主という「本人」の利益を最大化させるために働く。それが会社の基本形だ、というのである。 このように、「会社は株主のもの」という見方が経済理論的にも揺ぎなく支持されている現状がある。 ●主張B 「社員や顧客があってこそ」 伝統的な日本企業やサラリーマンには、「会社は株主のもの」という考えとは全く別の意見がある。むしろ「会社は社員や顧客のもの」というのが実感に近いはずだ。そのポイントをまとめると次のようになる。 現実の会社は経済学の世界とは違う。 まず、創業者や社員のやりたい事業があり、そのために資金が必要だから、株式市場で投資を募り、株主を集めるのだ。 創業者が株主の場合は、確かに会社は株主のものだが、上場してサラリーマン経営者が経営する会社にとっては、株主は債権者と同じく、資金の出し手に過ぎないではないか。 そもそも、会社の存在目的は利潤の最大化なのだろうか? 多くの会社の定款などには、事業を通じて社会に貢献したい、という設立目的が掲げられている。 これは単に表向きの無意味なお題目ではない。普通の人間は、金銭的利益だけのために働くことなどできないのだ。会社の事業内容に、何か公共的な意義がなければ、社員はやる気を持てない。利益だけを目的にする会社に、普通の人は人生をかけられないのだ。 株主にとっての利益も、短期の利益か長期の利益かで違ってくるはずだ。 長期的にみれば、社員がやる気を持ち、多くの顧客が高い満足度を感じるような事業をする方が会社の価値も上がる。短期的に株主の利益になることをやれば、長期的に株主自身の首を絞めることになる。だから、会社の経営の細部まで株主の思い通りにやるべきではない。 経営陣、社員、顧客の総意で経営の方針は決まってくる。その事業の結果、利益が上がれば、株主は出資者として利益を受け取るだけだ。株主権のことを残余請求権ともいう。賃金支払いや債務返済をしたあとに残る会社の残余利益を取る権利のことだ。つまり、株主は残り物をとる権利を持つに過ぎない、と見るべきなのだ。 ○ディベートに対する小林さんのコメント「ぶつかる市場の倫理と共同体倫理」 さて、どちらに分があるのだろうか。会社というパイを株主と社員でどうやって分配するか、という話だとすると、どっちもどっちということになりかねない。 外からみると、会社の事業や行動は、株主が主で社員が従でも、あまり変わらないかも知れないからだ。 問題は、もっと奥深いところにある。それは、会社が社員の自発的な自己犠牲を必要とするときがある、ということだ。 たとえば、顧客のクレームに対応するため、深夜や土日に残業が必要になる場合がある。会社が残業代などで金銭的に保障するのは当然だ。しかし、社員は仕事のために、お金では取り返せない犠牲を家庭や私生活で払っているともいえる。 社員が自分の生活を優先し、顧客の要求に対応しなければ、会社の信用が落ち、利益が上がらなくなる。社員みんなが自分を犠牲にせずに会社が順調にいくのが理想的だが、そんなことは少ない。どの会社も多かれ少なかれ社員の自己犠牲に支えられている。では、なぜ社員は自己犠牲を払うのか。 それは、顧客への信義や会社への忠誠心、仕事への志といった倫理観に支えられているからだろう。しかし、信義,忠誠、志という価値観は、金銭的利益とは相いれない倫理体系にぞくしている。 人間の倫理体系は二つあるという説がある。一つは市場の倫理で、これは「契約を守る」というような商取引上の美徳をあらわす。しかし、市場の倫理は自己利益が究極目標であり、そこから自己犠牲は出てこない。もう一つは、共同体内部の統治倫理。軍隊やスポーツのチームなどが典型的で、自己犠牲によって仲間を救うことが大きな美徳とされる。 会社は、外との関係では市場論理で利益を追求していても、その内部は共同体的な倫理規範で運営されなければならない。ところが、株主が会社の「内部」に市場の倫理を持ち込むと、その倫理規範が壊れてしまう。 利益優先の買収が大きな反発を呼ぶのは、そのためだ。社員にとって、会社が金銭的利益を超えた高い理念や理想の対象でなければ、自己犠牲などできない。 もちろん、それは社員の側からみた共同幻想ともいえる。しかし、社員がそう云う幻想を持てない会社は結局、よい仕事はできない。そして利益も上げられない。 一方、会社が利益追求のマシンでもあるという側面も、市場の現実だ。 この両義的な現実が終わりのない論争を引き起こす。 小林慶一郎氏の略歴 91年、通産省入省、01年4月から経済産業研究所研究員。シカゴ大学経済学博士。03年1月から朝日新聞客員論説委員。
この一週間ほどのいろいろな会合に出ていると、必ず中国での反日運動の話題が出る。いろいろな人の話を聞き、政府の反応、マスコミの反応、などを見ると、苛立ちを感じざるを得ない。 一番の問題は、現代日本人の「国」というものに対する根本的認識の欠如である。この地球上になぜ国と言うものが存在し、何を目的に機能しているかという基本的認識の欠如である。 事典によれば「国、国家」とは以下のように定義されている。 「近代国家は、一般に「領域」「主権」「国民(民族)」から構成される。つまり、(1)国境で囲まれた一定の領域が確保されていること、(2)その領域内では一元的な法律の権威が共有され、その法律を制定し、強制するための排他的組織が確立していること、 (3)構成員の間で言語、文化、宗教に関して相当程度の共通性がたもたれていること、の3つの要件である。」 しかし、これは国の内部構造を定義しているに過ぎない。そもそも国とは他の共同体に対抗するための「利益共同体」として生まれたものである。「国益」という考え方があっての「国」なのである。「国益」はその国という共同体の構成員の利益を云うが、これを追求してはじめて「国」の存在価値が生ずるといっても良い。国のリーダーのつとめは、国益の追求にある。確かに、時として、権力者を始めとする一部構成員のためだけの利益に結びつく弊害を招くことがある。しかし、だからといって、国益の追求が間違っている、ということではない。 現代の日本人は、60年前の敗戦、占領という事態に直面した時、「国」「国益」に対する思考停止に陥ったのだと思われる。確かに、殆どの諸外国は何れもその歴史に、敗戦、他国による侵略、占領の経験を持つ。しかし、日本だけは、歴史始まって以来その経験を持たなかった稀有の国である。このため、直面した事態に「一億総懺悔」という極めて情緒的な受け止め方しかできず、論理的、合理的に受け止めることができなかった、と言えよう。まずは復興に総力を傾けざるを得なかったこと、東西の狭間にあって、日本と言う国のあり方を、己では決められない状況に置かれた事もそれに拍車を掛けたのだと思う。 しかし、結果は現在の「日本国」に対する認識を持たない、言い換えると国を持たない国民をつくってしまった。 日本が再軍備化するのは「国」である以上必然である、と日本人以外は考えている。まさか本気で軍備を持たないことを目指しているなどと日本人が考えているとは誰も思っていない。国を維持するため、発展させるために、軍備が必然だと誰もが思っている。逆に、再軍備化をしない、と言えば言うほど、他国は警戒せざるを得ない。 一国の首相のビヘビアーは、国策を明示していると解釈するのが、当然である。最近ある人が、「日本人にリーダーシップが欠けるというが、フォローシップが欠けているのだ」といっていた。確かに、政府もそうだし、企業もそうである。首相が靖国神社を参拝するということは、これが国策であるといっているわけである。しかし、殆どの日本人はそのように解釈していないし、首相自身も、選挙対策に参拝しているのであって、国策のつもりで参拝している様子もない。しかし、日本人以外は、そう思っていない、と言うことに誰も思い至らない。 (なお、最近人から聞いて初めて知ったのだが、靖国神社に遊就館という展示館があり、ここでは明らかに日本の侵略戦争を肯定する趣旨の展示を行っていることを知った。因みに、靖国神社のInternet site上での遊就館の説明が以下のようにされています。 明治15年我が国最初で最古の軍事博物館として開館した遊就館は、時にその姿を変えながらも一貫したものがあります。一つは殉国の英霊を慰霊顕彰することであり、一つは近代史の真実を明らかにすることです。 近代国家成立のため、我が国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し、英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにするのが遊就館のもつ使命であります。 但し、英文頁はまったく違うことが書いてあります) 私個人はこの趣旨に同意しますが、こういう趣旨で靖国神社があり、そこを首相が参拝することが、他国にどう捉えられるか、ということを国民の多くは知らないでいる。 今、中国では経済の発展につれ、それなりに自信を回復しつつある所にありながら、日本製品が巷に溢れている。たとえ、それが中国工場で、中国人を雇用して造られていようと、当然、利益は日本に吸い取られている、と言う苛立ちを感ずるのは当然である。また、社会主義を捨て、資本主義を全面採用した中央政府、ならびにエリート集団たる共産党も急激に拡大する格差問題に対する一般民衆の不満の捌け口を、反日運動のある範囲の許容と言う形で対処するのは、これもまた当然である。そのためにも、中央政府は今まで大体10年周期ぐらいで「リメンバー日本侵略戦争」の運動を行い、世代の若返りによる風化を防ぐ対策を取り続けて来ている。国益を考えれば当然の方策である。 日本人は、よく戦争は過去の問題、というが、他国は国益のためには、過去も利用することは、当然であり、何の不思議もない。 最近、ある人から聞いた話。その人が、反日運動を伝える日本の新聞を中国の友人に送ったところ、次のような反応があったとのこと。 「現状を極めて憂慮している。日本は教科書問題、尖閣諸島問題、常任理事国入り、などなど中国を刺激することを次々に繰り出してきている。これに対して、中国一般民衆が暴発するのを待っている。大体尖閣諸島問題、竹島問題で挑発しながら、常任理事国入りを目指すことなどあり得ないことであることを、一般民衆は分かっていない。日本が常任理事国入りなどする気もないし、できるとも思っていない。日本が米国の指示の元、次々に中国に誘いの手を出し、暴発するのを待って、米国と一緒に中国を押さえることを策していることが分からない。正直言って、現政権はまだ磐石ではない。保守的な勢力も残っているし、老人方もいる。この日本の挑発に乗らないよう、一般民衆を抑えきることには限度があるかもしれない。極めて憂慮している」 この人が考えていることの是非はともかく、本当に日本がこれほど戦略的であれば良いのだが、と思わざる得ない。まあ、尖閣諸島問題に対する日本政府の発言、行動を冷静に見れば、如何に日本が国益意識がなく、国策がない国か分かると思うが、外国から見れば、まさかそんな国はあり得ないと思っているから、余計深読みされてしまっている。 昨今の反日運動が、激しくなるか、一過性のものになるか、どうかは中国の内部ポリティックスの如何に依ると思うが、繰り返されるであろう。 しからば、日本は?と云うことになるが、打つ手はないであろう。日本人が「日本国民」であることを自覚しない以上、情緒的対応に終始していくだろう。もう一度敗戦、占領を受け、その時こそ60年前の経験に活かして論理的、合理的認識の下に、国を再建するしか方法は無いのではないか、と思う。 あるいは、安易な解としては、日本という国を解散して、何処かの国に併合して貰うことではないかと思う。
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